『赤い夢の迷宮』と20歳と感想

私事で、今月末に20歳になります。突拍子もねえ。
で、何をしたかというと、まあ勇嶺薫の『赤い夢の迷宮』をたった今読んだんですね……。
その昔、小学生のころ、はやみねかおる(敬称略)の作品にのめりこんでいたころ、図書館でふと勇嶺薫名義の作品を見つけてまあ全然何の気なしに借りて読み始めたんですけど、中盤まで行ったところで思わず本を閉じた。あまりにも、私が知っている先生じゃなかったから……でも、文体は確実にはやみねかおると同じで、頭がめちゃめちゃになった。閉じて置いておいても、出来心で開いてしまうとまたしばらく読み続けてしまう……でも、小学生が接するにはあまりにも酷すぎる展開、特にゴッチのところがキツすぎた、で、まあ、完全には読み切らずにそのまま返却した。封印するみたいに。


大学生になって、はやみねかおるをそこまで追わなくなってしばらく経った。
それで今日、本屋に行って、何を買うか迷ってウロウロしてたら、ふと棚の一番下に見えた見慣れた名前に意識が吸い寄せられた。思わず手に取って裏返せば、「OG」の文字。
それは、成人する前の、最後の子供時代への招待状。
しかも、手に付きそうなほど赤い……。


!この文章はネタバレを含みます!

 

気が付いたら買って帰ってた。
帰ってきて、ご飯食べて、ぶっつづけで読んだ。思い出される湿った記憶。これを書いたのは本当に私の好きなはやみねかおるなのか?本当に?本当に……?

 

ちゃんと最後まで読んだ。読めた。
冒頭、繰り返し繰り返し読んだはやみねかおるの文体に安心する自分に気が付いた。一番この人の文体が、読んでて落ち着くかもしれない……。

 

で、ですね
終盤、ふと頭に浮かんだことがあり、それの為にまあこれを書いています。
これは、もしかして、この「OG」という人物は、勇嶺薫の人格なんじゃないか。
「ぼく」は、はやみねかおるの人格なんじゃないか。
まあ、しょせん妄言なんですけど……………
でもそう思ったらめちゃめちゃに冷や汗をかいた。


作者は、まあ言ってしまえばある時は「ぼく」で、ある時はユーレイで、ある時はCちゃんなわけで。その中に、OGもいるわけで、OGのしたおそろしい発想は、作者の中にもあるわけで。


ウーうまく言えない
なんというか、ひらがなの中にも時々夜の闇を潜ませてくるのがはやみねかおるという作家なのは重々承知なんですけど、そこには絶対に守ってくれる存在がいる(教授とか)気がする。
でもここにはそれがいない……


そうか、それがこの恐怖の正体かも。
ひらがなのとき持っている絶対的安心がはちゃめちゃに破られている。しかも、探偵役のキャアが襲われることでその意識はより濃くなる。
読者的に生き残って欲しいと思った人物も容赦なく殺していく。OGみたいに。慈悲もなく。
そして最後には、「ぼく」までも壊れていくなんとも後味の悪い結末。
一体化する、「ぼく」とOG……
勇嶺薫はやみねかおるの人格。根本を共有しつつ、相容れなく、しかしある時には同一化する。


こっっっっわ怖い
あとがきで「在庫一斉セール!」とかいいながらトリックをぶち込みまくりこれを書きあげてしまう作者のことが怖い

 

さらに末國善己さんの解説で「しかも恐怖に追い打ちをかけるのが、殺人鬼がなぜ人殺しを快楽と感じるようになったのか、その理由が全く説明されないことである」(講談社文庫の文庫版p484)とあってすごい納得した。


殺人者をトラウマや過去持ちにし、それによる殺人だとするのは簡単だ。でも、作者はそれをしなかった。殺人者を、理解できない、説明できないものに魅入られた人物として書いた。
それが、恐怖をあおる。作品自体にも、そして勇嶺薫という人物に対しても。


うーん、怖かった……
しかし、久しぶりに思い出した、赤い夢のことを。
やっぱりこれを忘れたまま成人なんてさせてくれなかったぜ!


はやみねかおる、恐るべし。30周年おめでとうございます。そしてわたしの成人にも、乾杯(トスト)!